知立神社について

知立神社の歴史・由緒

【御祭神】

鸕鷀草葺不合尊うがやふきあえずのみこと(初代神武天皇の父君)
彦火火出見尊ひこほほでみのみこと(主祭神の父君、山幸彦)
玉依比売命たまよりひめのみこと(主祭神の妻、神武天皇の母君)
神日本磐餘彦命かむやまといわれひこのみこと(初代天皇、神武天皇)

【概要】
当社は景行天皇の頃の創建と伝え、以来千年以上にわたりこの碧海地方はもとより広く篤く崇敬を集めてまいりました。
すでに平安時代『延喜式』神名帳にその名が見え、三河国二宮として国司の祭祀を受け、江戸時代には東海道三社の一つに数えられ、東海道を往来する旅人には「まむし除け」のご神徳で知られ各地にご分社ご分霊が勧請されました。
近代以降においては皇室の祖神をお祀りするご縁から国家安寧・家内安全の神社として、今なお多くの参拝者をお迎えしております。

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【詳細】

式内社で三河国の二の宮、智(池)鯉鮒大明神(ちりふだいみょうじん)と称されている。創祀は社伝によれば、第12代景行天皇の時、日本武尊が天皇の命を受けて東国平定の折、当地において皇祖の神々に平定の成功を祈願し、無事その務を果たした故に、ここに建国の祖神彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、神日本磐餘彦尊(かむやまといわれひこのみこと)の四神を奉斎したのが始まりと云う。また、仲哀天皇元年という説もある。

国史上においては、日本文徳天皇實録の仁寿元年(851)十月七日の条に「進參河国知立、砥鹿兩神階 並加從五位上」とあるのがその初見である。これ以降、日本三代實録の貞観18年6月8日条に「授參河国從四位下知立神、砥鹿神並從四位上」とあり、神階を授けられたことが知られる。
なお、当社蔵の正安3年(1301)の扁額には「正一位智鯉鮒大明神」とあり、社伝に「亀山天皇の弘長元年(1261)2月20日正一位を授奉らる」とある。

文明3年(1471)3月に尾州緒川の城主水野直守が社殿の修造を行ない、大永6年(1526)11月に同水野右衛門太夫忠政が修理を行ったが、天文16年(1547)戸田弾正宣光の兵火によって社殿は焼失し、社地を重原村に遷座し、元亀2年(1571)の造営によって社地を現在地に再び遷座した。後、水野信光によって本社を造立し、元和2年(1616)水野正清が修造を行ない、社領十石を寄進した。寛文年中には松平主殿頭忠房により十石が追加寄進された。

朝野にわたって厚い崇敬をうけ、江戸時代は東海道の街道沿いに鎮座することも手伝って、東海道三社の一つにも数えられ、参勤交代の途次諸大名は必ず神札を受けられたと伝える。また、大垣藩主戸田氏は特に崇敬厚く例祭の折は代参を立てるほどであり、刈谷藩主は毎年3回参拝奉幣をしたという。

明治元年9月明治天皇の東幸の際に勅使が差遣され奉幣が行われ、同2年11月11日には皇后の代拝参向が行われ、守札が献上された。

明治5年9月に県社に列せられ、同40年2月28日に神饌幣帛料供進社に指定された。昭和50年12月別表神社に加列。

境内案内

本殿・幣殿・祭文殿・回廊・拝殿 

[国登録有形文化財]
知立神社の社殿は、「尾張造り」と呼ばれる独特の社殿配置を形成しています。これは尾張地方特有の社殿配置であり、三河の地方に建つ尾張式の社殿群はその珍しい例外であります。この地は明治以降、度々天災にみまわれ、現在の社殿は江戸後期から昭和にかけて造営されたものです。

親母神社うばがみしゃ(摂社)

[国登録有形文化財]
祭神:豊玉比売命
(主祭神の母神、安産の神)

土御前社つちのごぜんしゃ(摂社)

祭神:吉備武彦命
(当神社ご創建の御奉行)

合祀殿ごうしでん(末社)

祭神:天照皇大神 ほか

小山天神社こやまてんじんしゃ(末社)

祭神:少彦名命
(医薬、醸造の神)

秋葉社(末社) 

祭神:火之夜芸速男神
(火防の神)

多宝塔 

【国重要文化財】
嘉祥3年に建立。のち永正6年(1509年)、近村の豪族山岡忠左衛門の寄進によって再建されました。三間二層、杮葺屋根。明治初年の廃仏毀釈を免れた神社境内の多宝塔は全国的にもきわめて貴重です。

⑧茶室 池鯉鮒庵ちりふあん

[国登録有形文化財]
地元旧家より移築された数寄屋風茶室です。明治時代の自由民権家の板垣退助や内藤魯一ともゆかりのある建物です。

養正館 

明治19年(1886年)に明治用水連合水利土功会の事務所として建てられた県下でも珍しい明治十年代の洋風建築。明治23年(1890年)の陸海軍大演習の際、明治天皇の御休憩所となる栄に俗した為、記念館とも呼ばれています。

芭蕉の句碑 

俳聖松尾芭蕉が当地を詠んだ「不断たつ 池鯉鮒の宿の 木綿市」の句碑は、池鯉鮒出身の門人井村祖風が建てたものです。

神池 

この神池は江戸時代に当地が「池鯉鮒宿」と表記されていた元とも言われ、今でも多くの鯉が見られます。享保17年(1732年)に造られた石造りの橋が架かっており、鯉が眼病を患った長者の娘の身代わりになったという「片目の鯉」の伝説地でもあります。